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逆ヒバの湧水@花巻市石鳥谷

石鳥谷 逆ヒバ

花巻市石鳥谷の国道4号線沿いに、ひっそりと立っている「逆(さかさ)ヒバ」。

逆ヒバ周辺は、林になっているので、見落として気づかない人もいるだろう。

石鳥谷 逆ヒバ

その逆ヒバの根元に湧水がある。というか、湧水跡。残念ながら見に行った2019年7月時点では、湧水を確認することはできなかった。何年か前に見に行った時は、やや濡れていた記憶もあるが、雨が降った後だったかもしれない。

石鳥谷 逆ヒバ

案内板を見ると

【逆(さかさ)ひば】

伝説によれば、今から千二百年ほど前に、弘法大師が諸国を巡行の折、この地に立ち寄り、透きでのどを潤そうとして休憩しました。その際、地面に挿した杖が根づいたのが逆とバといわれ、杖はそのまま根を張って大きくなったといわれています。この逆ヒバは、植物名をクロスやクロビ、またはネズコなどといわれています。これは、心材が無いとノキ科の一という意味でこの名があります。クロペは本州や四国に分布していますが、特に中部以北の深山に多く、県内では、所々の山地の石地や足長などに見られます。逆ヒバは、積元の1年が約メートル、幹の周囲が判四・七五メートルあります。県内の植表されたクロペの中で、最も古い大木とい われ、これに次ぐものとしては、金石市の西住神社境内や盛岡市太田の太田薬師神社境内などに残っています。逆ヒバという呼び名は、幹が太くなってち根元のほうが細くその上のほうが太くて、あたかも杖の様子を迅想させることから、この名がつけられたともいわれています。逆にパは奥州街道(国道四号、奥羽山道」の西路に立ち、古くから街道を往来する多くの旅人に親しまれ、見守られてきましたが、すぐ脇にある子守観音の神木としても大切にされてきました。また、逆ヒバの下にあるき水は、旅人の茶のきをいやしたといわれていますが、近年は、周囲の環境の変化によって利れかかってきています。

平成十六年三月一日 石谷町教育委員会

弘法大師が立ち寄って、杖をぶっ差したら根付いた。とまぁ、胡散臭い話ではあるが、伝説とはそんなものだ。

石鳥谷 逆ヒバ

もう一つの案内板によると

【小森林(小森)館跡】

館跡は中世に稗貫郡を統治した神員氏の家臣小森林氏の居館跡と伝えられる。小森林氏がいつ頃からこの館に居住したのかは不明であるが、永享七年(一四三五年)から翌年にかけての神戸・和賀地方の兵乱の際、小森林治部少輔が独自氏の従士として参戦したことが古書に記されており、この頃には居住していたのではないかと考えられる館跡の規模は東西・南北ともにおよそ四百メートルで、現在確認できる程只氏家臣の館跡の中では最大の面積を有していることから、小森林氏の勢力が強大なものであったことがうかがわれる。四つのが確認できるが、その中で北東の郭が最大の面情を有する。郭の北側から南西に向かって幅十一十五メートルの畑が館の下にみられ、さらに南に折れて南側の沢につながっている。また、段丘の崖に沿って幅三~四メートル、高さ一二メートルの土塁が築かれている。郭の北隅には館の鎮守である「小森(子守)観世音」が鎮座、その東下には名木「逆ヒバ」や湧水がある。天正十八年(一五九〇年)、株式氏は小田原の役に参陣しなかったため、所領を没収されて滅亡。この時、小森林氏も主家とともに滅亡したものとみられ、翌年から程賀地方は南部氏が統治した。館の周辺には神兵氏に関連するといわれる「種努業神社」がある。また、当時の名残とみられる「直」や「鍛冶屋敷」「小森館」などの地名が残っている。

とある。つまり辺り一帯の林は、小森林館の跡だったのだ。 逆ヒバが立っているところから、林のほうを見ると、お墓っぽいものが見える。 案内板に書いてある、小森(子守)観世音か?

石鳥谷 逆ヒバ

岩手県の観光ポータブルサイトには、青々と葉が多い茂った逆ヒバの写真が載っているが、今は、見る影もない。7月だというのに葉が1枚もなく、枯れてしまっているようだ。

だが、これはこれで、神々しい。